昭和42年07月04日 夜の御理解
「我情我欲を放れて真の大道を開き見よ、我が身は神徳の中に生かされてあり。」と仰います。
我情我欲を離れると云うことと、信心しておかげを頂いて行くと云うことは、平行していかなければ頂けるものじゃないと云うこと。ね、我情我欲さえ外せば、欲さえ放せば、周囲の思いさえ外せば、おかげを受けられると云うものじゃない。ほんとにこの信心の稽古と云うものがほんとに生まずたゆまずとして頂いて、日日おかげを頂いて行くから神様の間違いなさが分かるから、我情も捨てていいんだ、我欲も捨てていいんだと云うことになるのです。ね、
だからその我情我欲が離れて行くと云うことに、と云うことは、神様をいよいよ分かって行かなければ本当の離し方は出来ない。はあ我情を離しなさい、我欲を離しなさいと云うただけじゃいかん、訳になりますね。いわゆる力を、神様を信じる力を頂ながら、頂く力その程度に応じて我情我欲が離れて行くと云うおかげ。そこにはほんとに何とも言えんと云うかね、それこそお芝居のようなおかげになってまいりましょう。
丁度今日の御祈念前にテレビがあっとりました。途中から見せて貰ったんですけれども、まあ市川歌右衛門演ずるところの「暴れ太夫 ? 」時代劇がチャンチャバラバラの映画なんです。ね、ある松平と云うたですね、公のそのいわゆる御殿で起きた事件なんです。勿論それは事実にあったことではございますまいけれども、私その映画をテレビ映画を見せて頂ながら感じるんですねえ。これは映画じゃないな、テレビじゃないなと思うんです。この通りの事がおかげが受けられるんだと云うことです。ね、
それこそ、世の中に悪人はびこりですね。そしてもういよいよと云う時にはもう最後にもうその一所に一堂にその善し悪しも集めておいて、そして裁いていく。そして最後はハッピーエンドに終わって行くと云う筋の映画でした。長男の市川歌右衛門演ずるその人がですね、自分の義理の子である二番目の子どもにそこの跡目を相続させたいと云う願いから、自分はそのやくざの中に身を投じて自分がその嫡子であると云うことを取り上げられる。もうそれを実は待って居った計画の中にあった。
ところがその親方のうちから歌右衛門演ずるところのその大名がです、もう大変な腕利きなんです。ね、同時にその我情我欲を捨てた男なんです。も、そういう例えば、何百万石、何百石か知らんけれど、何千石か知らんけれども、そういう名をもう捨てて仕舞おうという無欲な男。同時に力が、はもうそれこそ、それこそ何十人向こうに回しても絶対自分な怪我一つしないというほどに強いんですからね。
そして最後にいわゆるハッピーエンドに終わって行くと云う、もうほんとに私はですね、お道の信心さして貰や、あああ云う映画以上だと思うですね、本当は。もう実にその見事さ、神様のお裁き、神様の一分一厘間違いの無いこの働きと云うものは、もうとにかく恐れ入って仕舞うばかりなんです。私は昨日、今日例えばそれをほんとにあの、こと細やかにね皆さんに聞いて貰えないことが残念です。
昨日、今日例えばですね、ある三角関係で非常に悩んで居った。それがですね、その三人が三人とも不思議な不思議な問題、事柄から解決のおかげになって行きよると云う、いわばもう最後になってそういうおかげになって行きよると云う、まあその素晴らしい神様の働き、ね、もういよいよ嫡子である、その息子を勘当しなければならないと云うところまで行って居った。三日三晩それこそ親戚の者も集まってやって居った。ね、
だからもう勘当しなければならない、もう勘当すると云うところまで行っとたんですけれども、おすがりしてみえて、ね、今、毎日その勘当されなければならなかったと云う息子さんが毎日参ってきます。ね、そこにです、もうほんとにこのお話でも私が名前を挙げてそしてその具体的にこう言うなら、もうそれこそお芝居以上です。ね、
今日、先程からお取次させて頂きました。それでもここ一週間あまりに起きた一つの家の中の大変な難儀、もうそれこそ両方とも泣きの涙と云う様な問題、ね、いわゆる姑、いわゆる姑、ね、とその嫁さんとその兄弟達との問題、夫婦の問題、もう家の中が暗うなってしまった。しかもですね、神様の働きと云うのはですね、それを二つを一緒にここに集めなさるんです。
それもここで合致合うんじゃない、あら、今皆帰られたよ。しかもあなた、久留米の方へ何里、こちらの方へ何里と離れた所から参って来るんですよ、ここへ。両方ながらが。ね、今日なんかもそげんでした。ね、妹さんが参って来た。その次は向こうのお母さんが参ってきなさった。姉さんが参って来なさった。そしていよいよ向こうの方へ今日話に行くと云うて参って見えた。ほんな今送りだしかと思う時に、向こうの姉さんが参って見えた、夕方。
もう只神様の働きに、もう驚いて仕舞う、恐れ行って仕舞う。私はそれこそ市川歌右衛門演ずるところの暴れ大名じゃないけれどもです、こりゃあ何と言うても、これはここの合楽の信心の御比礼の賜だと思いましたですね。もうその辺の裁き方と云うものは、もうとにかく何ともかんとも言えないです。今日も皆さん映画をご覧になった方はそれを筋がです、もうほんとにお芝居ちゃああげなもんじゃろうと云うけれども、実際におかげを頂いて行くことはです、もうお芝居以上なんですよ。ね、
それで例えば最後の人の問題なんかでも、とにかくならね、嫁さんの方も一番初めは向こうの娘さん達二人もござるから、その娘さん達を自分達が親代わりでほんとに可愛がっても上げよう、よかとこに縁をつけて上げようちゅうごたある思いで行っとるとだけは間違い無いですよ。初めから向こうの嫁さんば虐めようと なんていっとる嫁さんはおらんとじゃ。なら今度は、こっちの方の兄弟とてもそうなんです。
姉さん達夫婦が幸せにならなければ、自分達の幸せはないとさえ思うて、円満を願っておる、そこへです、ちょっとしたこの問題がどうにもこうにも出来ない事になり、親子が兄弟がつかみ合うてでも喧嘩しなければならない様なことが起きて来て居るんですもん。そして一言一言がです、ね、こう言えばああ曲がり、こう言えばこう曲がらねばならない様になっておるのです。両方の者が私がここでならお取次さして頂いてです、あんたもあっちの幸せを願っておる、あんたもこちらの幸せを願っておられる。
幸せの事を願っておる者同志が、具合いよういかんと云うは、ここになんかがここにあるからなんだ。だから、この何かがあると云う問題をもう水に流して、これからはお互いが合楽の金光様であちらの幸せを願い、あなたもあちらの幸せを、そのなるほど憎み合うたこともあったけれど、その心の底にあるものは、双方が幸せになりたいと云う願いからであったと云うことが分かったんだから、今夜の話合いはそこのところに焦点を置いて話されたら、両方の方のそれが話せれるということなんですね。
あのうほんとにですね、そういう様な私はおかげ話をですね、もうほんとに今日のお芝居の筋を話す様にしてお話が出来たら、それこそほんなつじゃあるじゃろうかと、云うごとあるけれどもです、お芝居以上である、映画以上である、神様のおかげを頂くと云うことは。けれどもそこの中心になる者がです、市川歌右衛門がおらにゃいかんちゅうことですよ。それを裁ききらんのです。
如何に我情我欲が自分がもう殿様にはならん。そして弟に譲る、と云うてもお家の中にああた、悪人がはびこっておる、それをいわばその処置することも手も打てなかったらいけませんものね。ね、市川歌右衛門演ずるところのその暴れ大名がです、腕もあれば云うなら我情もなからねば我欲もないという男であって、初めてそれだけの事が出来るようにです、信心も同じ事が言えると思うのです。今こそね、皆さんがそういう信心をですね、頂きなさらなければね。
まあそういういわば手本を前にして皆さん居られる訳ですから、今こそそういう信心を身につけておいでなさらなければね。それも、さあ我情我欲を取れだけだけじゃいかんて。ね、神様のおかげを頂かせて頂いて、おかげを頂かせて頂いて神様の働きと云う、神様のお働きを信じる力が段々出来ていくということに従ってです、我情我欲を取って行く。今朝からの御理解です。憎い可愛い惜しい欲しいを取れば楽じゃと仰るような、おかげにこちらがなってくる時です、ね、
自分だけの助かりだけではない、そういう世の中には、お芝居以上の様な事があっている様な事柄をです、ね、座っておっていわば解決出来る様な力を、神様が与えて下さるのです。ね、ですからそういう私は力を願わせて貰わなければ、それを先ずおかげを受けなければいけん。それにはやはり一生懸命なお参りもいりゃ、一生懸命な修行も要る。なら力頂いただけで、力だけじゃいかん。ね、
やはり、と同時に自分は大名なんかにいわばならんでもよかと、そんなもんでも一辺捨れと言われたら捨てるだけのです、私は無欲さと云ったものが段々育っていかなければならん。そこに私は我が身は神徳の中に生かされてあるという様なおかげを頂けるんだと云うことを思う。ここに私は今晩皆さんに聞いて貰うことはです、とてもあれはお芝居じゃあない、いや実は金光様の御信心でおかげを頂いて行くと云うことは、とても本当にお芝居以上であると云うことなんですよね。
どうぞ。